8月27日から28日にかけて、日本共産党京都府議会議員団として、原発災害で分断され、今なお深い悩みの中にある福島県南相馬市小高区に調査に伺いました。
3・11東日本大震災・福島原発事故から1年5ヶ月が過ぎました。原発ゼロを願う声、大飯原発再稼働反対の世論が大きく広がる一方、マスコミはほとんど福島の現状や原発がどうなっているのか報道をしなくなりました。
そうした中で、被災者に連帯してたたかうためにも、原発災害の今を、福島の今をしっかりと知るべきではないか、との話がまとまり、調査が決まったものです。
伺ったのは、福島第一原発から直線距離で南端が9.7km~北端が38kmに位置する福島県南相馬市です。
大地震で多くの家屋が倒壊したものの幸いに死者は出なかったのですが、直後に襲った津波は南相馬市の10.2%を消失させ、7月26日現在で死者数は951人。うち、災害関連死が315人にものぼります。
3月12日の昼には屋内退避の指示により被災者の捜索が打ち切られ、ついで夜には避難指示が出されたことで捜索が完全に打ち切りとなり、捜索が続けられれば助かった人がいたはずですが、全員が避難したために、瓦礫の下で餓死した方もあったということを聞き、胸がズキズキ痛みました。緊急の避難、遠方への避難、長期の避難の中で次々に亡くなられていったのです。「原発さえなければ」という声を何度もお聞きしました。
遺体の捜索は1ヶ月後から。防護服に身を固めた自衛隊員や警察の方が、白骨化したご遺体を救い出しだそうです。いまでは津波の塩害で田畑は短い草だけが茂り、逃げきれなかった車があちこちに転がり、遺体捜索のためによけられた瓦礫やぐちゃぐちゃに曲がったガードレールなどが草に埋もれて点在していました。
原発から12km地点に自宅があり農業も営んでおられた、渡辺貫一・南相馬市会議員団長にご案内をいただきました。渡辺さん自身「3・11」以降、家族がばらばらに避難したまま、今年4月16日まで自宅に帰ることも禁止されたなかで、仮設住宅に住みながら住民の命を守り、被災者の救援復興に全力を挙げておられました。息子夫婦は孫たちと一緒に愛媛に避難したそうで、子供が20歳になるまでは帰ってこないとのこと。
4月16日には「警戒区域」から「避難指示解除準備区域」に再編された小高区(原発から20km圏内)は人が住んではならない地域です。
小高の商店街は地震で潰された家屋がそのまま残され、人はいません。地震で陶器がめちゃめちゃになったままのお店もありました。地震後片付けの最中に避難指示が出されて急遽避難されたのだと思います。一部の倒壊家屋の撤去作業などにあたる作業員の一団がおられ、時折通り過ぎる車があるだけで、誰ひとり住んでおられません。
原発から30km圏内の原区は4月16日から居住制限区域。
ここは介護の必要な人や子ども・障害者は住んではいけない区域です。理由は、地震などが起こったとき自力で逃げられないからだそうです。
原発事故の収束宣言を早々と出して、原発再稼働に踏み切った野田首相に大きな怒りが湧いてきました。この現実を直視しろ!!と。