所管事項の調査
下記のテーマについて、理事者及び参考人から説明を聴取した後、質疑及び意見交換が行われた。
・移住者視点の地域おこしについて
◯片岡政策企画部副部長(企画総務課長事務取扱) 政策企画部副部長の片岡でございます。委員の皆様方には、平素から京都府の地域振興の推進につきまして、御指導いただきまして誠にありがとうございます。
それでは、早速ですが、京都府の新しい移住促進施策について、資料に基づき説明をさせていただきます。
初めに、資料の1ページ、これまでの取組の成果と見えてきた課題についてでございます。
平成28年4月に施行されました旧移住条例に基づきまして、農村部への移住促進に取り組んできた結果、令和3年度の移住者数は676人と、平成28年度の326人と比べまして、約2倍に増加するなどの成果を上げてきているところでございます。
ただ、相談件数を見ますと、同じ期間で約3倍の伸びを示しております。
なぜこうした差が生じているかということでございますけれども、当初、想定外でございました市街地への移住を求めて相談に来られる方や、移住後の職業イメージを持たずに相談に来られる方が増えたこと、あるいは移住する前に2地域の居住を経験しようという動きが広がってきたことなどがヒアリングの中から分かってきております。
さらに、コロナ禍を経まして、地方でテレワークを行うなど働き方も変化したことから、このたび、移住条例を全面的に改正し、幅広くなりました移住ニーズに対応するとともに、移住前の関係人口と呼ばれる方も地域の担い手として受け入れていくこととしております。
2ページでございますけれども、今年の4月から施行しております新移住条例では、従来は対象外でございました人口が一定集積している地域であっても、人口が減少しており、特別な対策を講じる必要があれば、移住促進特別区域として指定することを可能としております。
また、従来の空き家改修等の支援に加えまして、市町村が移住者受入・活躍応援計画を作成して府が承認した場合の支援についても新設をしております。
次に、移住促進特別区域を示しておりますけれども、今年度に入りまして4地区が新たに指定をされまして、16市町村107地区となっております。
新移住条例に基づく新たな取組でございますけれども、まず移住・定住へのフォローアップを強化するため、各市町村が移住促進特別区域内に移住者や関係人口が地域住民と交流しながら活躍できる拠点を設けまして、移住促進等と連動した地域づくりを行う場合に支援をさせていただく制度を新設いたしております。御覧をいただいていますように、この表の中でございますが、様々なパターンを想定しておりますので、市町村においては、このスキームを活用することで地域特性に合致した移住者などの受入れを進めていただきたいというふうに考えております。
また、京都府におきましても先輩移住者ネットワークを構築しまして、移住者と地域とのマッチングの核を形成するとともに、地域体験等の取組を支援することで、地域外の大学生や企業と交流を希望する地域との関わりを強化してまいります。
次に、移住者の仕事づくり、地域企業との関係づくりへの支援といたしまして、市町村や地域企業と連携をしまして、移住後の生活体験が可能なインターンシップや、企業の外部人材の募集を通じまして、地域への定着に結びつくような取組を進めてまいります。移住前に実際に地域で活動してもらい、地域のファンになってもらった上で移住することで、移住者にも企業にも喜んでいただけるようにしていきたいというふうに考えております。
これまで説明をいたしました取組などを通じまして、旧条例では市町村、地域のみで移住者のニーズに対応してきたものを、新たな条例では移住者だけではなく関係人口のニーズにも対応するとともに、移住者等のニーズに応じて様々なプレイヤーがサポートする、例えば創業等のビジネス面に関しましては、商工会議所や金融機関がプレイヤーとして参画するなど、様々なプレイヤーが連携しながら移住者等と一緒に地域課題に取り組むことで地域が活性化し、それを見て移住者がさらに増えるというような好循環をつくり出していきたいというふうに考えております。
最後に、先月11日に京都全体の魅力を発信しながら府内各地を訪れるきっかけづくりや、実際に地域で活動している方との交流などを目的に、「ALL KYOTO FES」を大阪市内で開催しましたところ、約1,000人の方が来場され、具体的な移住相談や交流希望も多くあったところでございます。引き続き、移住者の積極的な受入れや関係人口の創出につながるよう、幅広い施策に取り組み移住するなら京都を実現していきたいというふうに考えております。
以上で私からの説明を終わらせていただきます。よろしくお願いいたします。
◯庄田参考人[株式会社Localize 代表取締役 庄田健助 ※オンラインで招致] 初めまして、私、Localizeの庄田と申します。よろしくお願いします。
今回は移住者視点の地域おこしということで、私、生まれは兵庫県の尼崎市でして、大学は北海道大学です。高校まではずっと尼崎にいました。大阪から福知山に来たのですけれども、その辺の流れを1度、僕がどんな感じでこういったキャリアを踏むことになったのかというのを、今日は御説明させていただきたいなと思います。
僕がやっていること、特にシャッター商店街の中での事業構築がかなり多いんですけれども、そういったところを地域の人と一緒になりながら、投資会社をつくったりイベント会社をつくったりしていますので、そういうのを余所者だけれどもできる可能性があるというのが参考になればなと思いますが、かなりイレギュラーなので、一旦、僕の中では、ここが参考になりますよというような切り口ではなく、あくまでやってきたこと、僕の思考、頭の中の流れを全部説明した上で何か、その上、各委員の方々のヒントになれば、こういったことが参考になるのかなというのを見つけていただけたら幸いだと思っております。
僕は基本的に大学生の頃から、何だったら高校生の頃から街が好きだったんですね。街というのは何かと言うと、例えばこういう心斎橋とか、大阪だったらそういうところで遊ぶのが好きだったんですけれども、何か古着屋が街の中にあって、カフェがあったり、美容室があったり、そういうカルチャースポットみたいなのがたくさんある街が好きで、そういったところに遊びに行っていたんですけれども、大学に行こうかなといった時に、そういったことを勉強する、要するにああいう空間をつくるってどういうことなんだろうなというのをちょっと思いまして、当時リノベーションという言葉がなかったんですけれども、今思えば古い建物をその良さを活かしながら活用していって、それを店舗だったり住宅化だったりしていくというようなことが当時から好きだったんですけれども、大学で専攻するとなると、当時は再開発という言葉が一番自分の中で近いのかなと思って再開発の専攻をしました。
ただ、実際のところ、大学に入って何ができたかと言うと、僕の育った街でこういうふうな大きなマンションが建ったりだとかビルが建ったりとかということが再開発だったと。論文で勉強しながら、逆にこういった都市化していくという流れを専攻していったというのが大学時代でした。
でも実際は、北海道大学だったので、札幌の駅前の開発の変遷とか辿っていっていたんですけれども、この建物ができる手前というのは、本当、昔からの長屋が密集したような街だったというのがもちろんあって、そういった中、残っているエリアなんか、このビルの横とかにあるんですけれども、どっちかというと、こういう雑多な感じというのが非常に好きでして、そういったものを生かしていく仕事ってないのかなというのを思い始めました。
自分が面白いと感じる街というのと経済の中で生み出される街、経済が発展していく中で生まれていく街というのは逆だなというのが当時の矛盾で、建築と経済をそこから考えるようになりました。結構、世界でも同じようなことが起こっていて、ニューヨークなんかの街でもそうだった、同じような現象で、昔からある町並みというのがなくなっていって、そのよさみたいなものをどうやって再生していくかみたいなことが、わりと当時は都市計画のトレンドにもなっていたなというふうに勉強して思いました。
日本の場合だったら、こういうロードサイド型ですとかショッピングセンター型ですとか団地、戸建ての密集地帯は日本が成長していく中で、もしくは利便性を追求していく中では絶対必要なものであると。
一方、そういった街ばかりでは面白くないなというのが自分のスタンスで、そうじゃないものをどうやってつくっていくかというのが興味でした。キーワードは界隈性という言葉ですね。浜野安宏さんという立命館大学でも先生されていた方が提唱されていた言葉で、これを僕はキーワードにしながら街づくりをしていきます。
例えば、こういった町並みですよね。京都だったり札幌だったり、いろんなところでもあります。これは尾道です。大阪の中でも雑多なビル街の中にあったりとか、北海道に関しては札幌の中にもこういったものがあるというのを写真で挙げています。こういったものが僕は好きだということです。そういったものを作りたいということです。
なので、私の課題設定、これはたぶん、自分が生きる上での何で仕事をするのかというところを考えた時に、いつも思っているのがこれをやること。経済の力学が働く都市において界隈性のある都市空間を自分の力で計画的に、ああいう計画されていないような空間というのはどうやって生めるのかというのが自分の基本ですし、生きている中での課題設定ということです。
ここから社会に出たので、どういった道のりになったかというのを御説明させていただきます。その途中で福知山に出会います。
今みたいなことしたいなと思っていた時に、僕は地方がチャンスなんじゃないかなと大学時代に設定しました。地方はある種、東京とか大阪とか、京都も含めて、大都市に人が流れていくという傾向の中で人口も減っていって、そんな中で昔からある建物だったり、商店街もそうですけれども、どんどん空いていくというか、空き家ができてくるというのがチャンスだなというふうに当時は捉えました。そういったことを街づくりの一環として取り組んでいる会社を見つけるというのが僕の就職活動でして、大阪のCOM計画研究所というところは、立命館大学の先生が経営されている会社だったんですけれども、そこに辿り着きました。
そこはどんなことをされていたかと言うと、これは兵庫県丹波市の事例ですけれども、柏原町という本当に小さな街があるんですけれども、そのシャッター商店街にある呉服屋さんを、かなり昔です、これはもう20年前ぐらいだと思うんですけれども、京都市内でも町家とかそういったものをリノベーションしていくというようなトレンドにどんどんなっていっている流れの中で、この田舎町でイタリアンレストランを拠点にされて、1軒の建物から街を変えていくというチャレンジをした会社です。
僕も最終、結果的にCOM計画研究所に勤めて、そこでこのまちでの仕事もさせていただいて、何軒かお店のプロデュースもさせていただいたんですけれども、この市街地の中にイタリア料理屋や、駅前の洋食屋さん、ギャラリー、和菓子屋さん、ジビエの店ができました。この街はケヤキの木が有名で、ケヤキの年輪がバームクーヘンに見えるので、バームクーヘン屋さんとかお蕎麦屋さんとか、そういったものをどんどんどんどん開発していって、この全然人が訪れなかった街が、今は観光客がたくさん訪れるような凄いきれいな街になっている。その中で、公園を整備したり道路の修景だったり、そういったものをやっていっているということです。それが私の中ではかなり参考になったので、これを修士論文でその変遷を勉強して追いながら、それを他の街でしていくというのが自分の中での社会人のスタートでした。
それで、初めて現場を持ったのが福知山だったんですね。福知山城の下に市民プール跡地があって、そこを中心市街地活性化の流れの一環で、こういった商業施設、ゆらのガーデンという商業施設をつくるというのが私の中で一番初めの仕事でした。このゆらのガーデンをつくるというのは、もともとは中心市街地活性化の基本計画を策定するだけのコンサル業だったんですけれども、当時の会社は計画だけじゃなくて計画から実現するまでを全面でプロデュースして事業もつくっていくというスタンスの会社だったので、僕は本当に福知山の街のいろんなところに様々な事業を妄想して、計画して、それを実現していくというところまで追い求めてやっているというのが、今も同じスタンスです。
これは当時のゆらのガーデンのでき上がりの時です。
中心市街地の中でもゆらのガーデンをつくるだけが目的じゃなかったので、そこからいかに市街地も魅力的にするかということで、福知山には広小路商店街という商店街があるんですけれども、そこの商店街のアーケードを撤去して、それを町並みもちょっと、左の上の写真ですね。ここにはもともとアーケードが架かっていて、建物の前にいろんな看板みたいなものがついていて、そのアーケードを撤去して町並みをきれいにしていくというものがもう1つのチャレンジだったんですけれども、当時、このアーケードを撤去するとなった時に、このアーケードが建物についているんですけれども、そのついているところの歩合とか全員が全員状況が違いますし、きれいにするというのは、一部国交省の補助制度も計画づくりして当て込んではいるものの、各お店には自己負担が発生するというところをどうやってその自己負担額だけできれいにしていくかというのを、この60軒ぐらいある商店街のお店を全部1軒1軒、1週間ぐらい泊り込んで、その中でシフトを組んで、皆さんとお話ししてやっていたという感じです。
なので、僕は基本的にそういう全員、いろんな方、権利関係が複雑な中で、商店街とか組織になっている既存組織の構成員の方々と基本、膝を交えてお話しするということが非常に多いので、福知山にむちゃくちゃ知り合いが増えたというのがある種、今、福知山にいる理由になっているような気もします。
その中で空き店舗もあったので、交渉していく中で空き店舗も貸してくださいとお伝えして、地元の第三セクターをまちづくり会社という形に変えていって、そこで投資をしてお店に入っていただいて、家賃でだんだん投資したものを回収していくという事業も組んでいきました。今、こういった商店街に新しく入った方々がもちろん抜けて新しい店になっちゃっているというケースもたくさんあるんですけれども、例えば右上のお花屋さんなんかは、その時に入っていただいた方が今、理事長をされていて、商店街は完全に若返っております。
そんな中で、ゆらのガーデン、お城の前の商業施設が2年連続で台風だったり大雨で浸かっちゃったという悲惨な出来事がございまして、そういう時に僕は非常に自分の中で葛藤しました。基本的に僕は自分の中に違和感があると、どうしてもその違和感を抱えながら何か前に進むということができないので、やっぱり違和感を取り除こうという発想になっていきます。当時は、やっぱり水害に苦しんでいる方が事業者の方でいらっしゃって、僕は誘致した、プロデュースした側の人間だったので、結構ひどい言い方をされる方も中にはあって、自分の中ではちょっと傷つきながら、一方でこの建物に水がついた後に、また再生するとなった時に、ちょっとお金を頂いて僕たちは新しいお店さんを入れたりとか、建物をきれいにするというちょっと設計の仕事が入ったりとかするという、請負で儲かってしまうという矛盾があって、何でこうなるんかなというのが本当に自分の中での一番初めの違和感でした。
自分の中でこの違和感を解消しようと思った時に、水害で苦しい思いをする側、では、誰なんだろうと思ったらテナントさんだったり、今回の場合だったら事業者、ディベロッパーのほうなんですけれども、そっちのサイドに行こうかなと思って独立する形をとることにしました。そこからいろんな、事業者側になるという時に、1人でやるよりもチームを組んだほうがいいなということも当時は思っていたので、ここだったら駅前の商店街の例なんですけれども、商店街を再生したいという思いを地元の名士さんとか、あと社協の方とか思っていて、僕はもう福知山にある種、身を置き始めていたので、時間もありましたし、では、ここの商店街をどうやって再生しようかなと思った時に、何か1つ、地域の開発会社を地元の方々と一緒につくって、その地元の方々と自分も含めて切磋琢磨していきながら、投資して、きれいにして、お店に入っていただくというような形をつくってみようかなと思って、商店街を全軒ヒアリングしまして、その中で同じような思いを共感していただける方にだけお声がけして、駅前で福知山フロントという会社をつくりました。
左上なんかは、そのメンバーに当時、ヒアリングした中で「何をしたいん?」と聞かれる方もいらっしゃったので、当時はインバウンドもどんどんどんどん動いていたので、「いや、今から福知山も海外の需要を見据えて駅前にちょっとゲストハウスのようなものがあったら、交流する方々も増えて商店街の活性化の1つの武器になるじゃないかな」と思って、「そういったものをやりたいなと思っているんですけれども」と言ったら、「いや、それ俺がやりたい」って言ってくれる方がいらっしゃったので、今はその方がホテルを経営されています。
ほかにも空き店舗をいろいろお借りして、いろんなお店の方に入っていただきました。
例えば、右上の方なんかは、この方自体も移住者で、京都市内から福知山にいらっしゃって、京都市内でされていたお商売の形を福知山に落とし込んでいろいろと、ケーキ屋さんとかされておられます。
自分の違和感が晴れ始めるんですけれども、当時の発注先であった開発会社、地元の第三セクターのまちづくり会社の今は役員になりまして、当時思っていた、言ったら苦しむ側のサイドの本当の構成員になれたので、ここから、では、どうやってさらによくしていくかというのを今から考えていきたいなというふうに思っております。
そんな中でいろんな違和感が僕の中では出てくるんですけれども、福知山でいろいろとお店づくりをしていっていると、何かこう補助金を使ってガーンと投資をしていって、それでお店をばっと入れて、一気に5店舗、6店舗できましたということを結構続けていたんですが、いや、そうじゃなくて、それだと初めに投資をしちゃうと結構リスクにもなりますし、本当に続くかどうかも分からないので、僕は途中で撤退する方とお話なんかをすることもかなり多かったので、そういったかなり苦渋の決断をされて、本当は続けたいけれども続けられないというところに僕が話しして、もう苦しいと思うけれども辞めるという選択肢もあるんじゃないですかみたいなのをお伝えするようなケースもあったので、そういったのがちょっとつらかったので、そういったことがないような状況をどうやったらできるのかなということで、僕はその当時、地元の方々と一緒にマーケットのイベントをしようかなと思いました。起業前のファンづくりの場というのがテーマです。
シャッター商店街の中で、商店街のお店もそうですし、そういった商店街の軒先なんかを使って、こうやってどんどんお店に入っていただいて、月1回、毎月第4日曜日に福知山ワンダーマーケットというイベントをしております。狙いとしては、やっぱり福知山の方が起業する時に、どこでもあるようなものを売るというのは、もうこれからの時代は難しいんじゃないかなと。やっぱりいかに自分のこだわりだったり、いかに希少性のあるもの、要するにオリジナルなものというのが大事なんじゃないかなと思って、そういったものを作っている方をメインに出店いただいております。
ただ、福知山だけだったらそういった店舗数というのは限りがありますし、刺激もないので、近畿一円からそういったこだわりを持ってやられているいろんな市の、京都府外も含めて、魅力的なお店に集まっていただいて、そういったものが好きなお客さんというのが福知山でもかなりの数いらっしゃいますし、福知山だけじゃなくていろんなところから毎月いらっしゃっていますので、そうした今からの時代の御商売に理解のある方々をたくさんマーケットとして集めて、そこでファンをつくれば、お店をつくる段階でもう既にお客さんがいるようなスタートを切れる、それが退店のリスクを軽減するということにつながるんじゃないかなと思って、これは6年間しております。
そんな中で、さらなるステップアップをしようとみんなと話しましたので、こういった商店街の中にあった建物を京都工芸繊維大学の学生のインターンを受け入れて設計していただいて、学生にも大工さんとかともやり取りしていくという、そういった勉強のチャンスの場を与えながら、テストキッチンを経営しております。それはどういったものかと言うと、月1回だけじゃなくて週1回とか月に何回か、週に何回か、ここでまずお店を開いて、これは家賃だけで済みますので、やってみて自分のオペレーション、どんな形でお店をすれば成功しやすいかなとか、お客さんに人気が出るのかなというのを1回ここでチャレンジしてもらってから自分のお店を開くという形の場を提供しております。
結果的にここから、今はもうワンダーマーケットからはこういったお土産と喫茶のお店、洋菓子のお店、この方はこのアーキテンポも使っていただいていましたね。ワンダーマーケットで出店していて、左下ではアーキテンポでも出店してくれて、右のような自分のお店を構えたということです。
この方はアーキテンポでお店を開いていた。この方もワンダーマーケットでもアーキテンポでもお店をされて実店舗を開いたという感じです。それで今はもう5店舗起業されている方がいらっしゃいます。
そうした形でどんどんどんどん応援していたんですけれども、自分の中の違和感としては、こだわりの商品とか食を届けるにはやっぱり家賃とか高熱費を抑えないと難しいんじゃないかなと。特にあまりガーンと大きな投資する方ばっかりじゃなくて、スモールスタートする方もたくさんいらっしゃったので。でも、工務店に安くお願いしようと思ってもクレームが怖くて、いや、もう手作りでいい、ここはちょっとこんなんでいいと言っても、最終的にクレームを受けて修理しなきゃいけないのは工務店さんなんで、本当に分かりやすい建物ばかり建っちゃう、それが出店しようと思っている方が満足していないということをかなり言っていましたので、僕がローコストで店舗をつくってあげようかなと思う時期もありまして、大阪の若い子と一緒に建物を自分たちでも解体したり設計していってお店をつくりました。こういった左のような帽子屋さんを、今は右のような菓子工房として使っていただいているんですけれども、お店にしたり、これはアーキテンポで出店していただいた方にこういった、僕の付き合いができたので、そのまま継続して、では、次のお店も僕が面倒を見ますということで設計してあげたり、建物を一緒に造ったりしました。
理想にかなり近づいてきたんですけれども、次のチャレンジとして僕自身はもっとフランクに、結構女性向けの取組をしてきたという面もあるので、もうちょっと男の人に対しても前向きに後押しできるような、何かそういう機会ってどうやってつくるのかなというのを思い始めまして。
一方で、自分が事業者サイドに回ったというものの、より事業者側、要するにコンサルとか開発会社じゃなくて、自分自身のテナントというか、お店を持ってみるということをちょっとしてみたいなと思うようになりまして、それは何でかと言うと、結構福知山の起業者の方を見ていると、すごい熱量を持っていろんな御商売をされている方がいらっしゃる中で、それが例えばもっとこう福知山の商圏以外、全国とか世界ともつながるような御商売の仕方をしたら、もっと面白くなるんじゃないかなというのをよく自分でも感じることがございまして、それで自分自身も、では、そういうのを思って言っているだけじゃなくて、そういった商売の仕方を福知山でもできないのかなと思いまして、僕はその中で一応クラフトビールを作ろうかなというふうにかなり強い思いを4年前ぐらいから抱くようになりまして、今年の7月にお店をつくりました。
お店をつくる前に、僕は人生最大のチャレンジかもしれないなと思ったので、2週間ほどアメリカに、要するに本場に行って、どういったカルチャーなのかなというのを視察しに行きました。
こういった感じで、これはサンディエゴの店なんですけれども、結局、福知山でもこんな状況になっているなと思ったんですけれども、男性の方が中心に集まって、気軽に和気あいあいとカウンターでしゃべるというようなケースがかなり多いですね。僕もサンディエゴとかポートランドに行って、ちょっとかぶれた面もあって服装とかもちょっとまねしていますけれども、大体こんな人が多いという感じです。
ビール屋さんともお話をする機会があって、僕はどういったことをコンセプトにビール屋さんをつくればいいのかなと非常に悩んでいたんですけれども、このポートランドのビール屋さんの方に教えていただいたのが、雰囲気を大事にしろと言われまして、ビール屋さんはおいしいビールを作るというのが仕事ではあるけれども、結局、その先に周りの自治会とか地域の方が楽しんでこそのビールだし、ビール屋だし、勝手にここの場合だったら、では、5周年記念のイベントってなったら、ここはお料理を提供していないので、いろんな周りの人とかお客さんたちが食事を持ち寄って、気づいたら勝手に5周年パーティーをされていたとかそういうのが普通にあるんだよとおっしゃって、それがクラフトビールのよさなんですよというのを教えていただいたので、ちょっとコミュニティという言葉を結構僕は大切にしようかなと思いました。
一方で、ポートランドというのは、アメリカでもかなりDIYカルチャーの発信源で、ここであったのは立体駐車場の一番上の階で家具工房をされている方とか、バンブー、要するに竹細工の工場の一角を借りてコーヒーの焙煎とコーヒー屋さんをしている方とか、何かこういうチャレンジをしている方が非常に多かったなと、そこを楽しんでいるお客さんもたくさんいらっしゃって、例えばそういうチャレンジを応援し合う仕組み、応援し合っている、楽しんでいるみたいな様子というのが、かなりポートランドの本質的な街の魅力を高めている原因なんじゃないかと思って、そういうことを大切にしないといけないのかなというふうに思いました。
僕は建物を借りたんですけれども、この北都信金の建物、旧福知山信用金庫さんでした。その建物を使いまして、1階をビール屋さんとパブ、2階をコワーキングスペース、3階をイベントスペース、屋上をビアガーデンにしております。何かあまりこういう、ここはここ、ここはここというのは本質的じゃなくて、アメリカで学んだのはその先に何をしたいのかということで、僕らは、それをたまたま東京と福知山の2地域に住んでおられる方が結構有名なコピーの会社だったので、その方にコピーをつくっていただいて、僕らの思いとしては、フランクに「ビール片手になんかやろう」というテーマにして、コミュニティーを大事にしながらみんなの背中を押して、いいじゃん、いいじゃんと言いながらビールを飲んでわいわいするというのが次の僕のやりたいことです。
それを事業化するとなった時には、今度は僕が今までやっていた仕事とは全く違う、本当に中身の話をすることになったので。
ただ、一方でレストランとか何か事業をする時に、できる方を引っ張ってきてやるという仕組みは僕には合わないなと思いました。
というのも、何かそういった経営の仕方をされている人を見た時に、その呼んで来た子がいなくなってお店の質がガラッと変わる、何だったら閉まっちゃうというケースもちょっと見ちゃったので、その時に自分自身は自分がある程度できるようになりたいなと思ったので、ビールの修行に行きました。
これもすごい御縁で、駅前で僕ら福知山フロントという民間のまちづくり会社をつくっているんですけれども、そのメンバーで視察に行ったら、そのメンバーの中に福知山の三和というところでかなりの大きさの、4ヘクタールの栗農園を丹波栗の生産力が落ちているからやるといって試みた方がいらっしゃって、僕はビールを作りたいので、では、一緒に栗のビールを作ろうということで、栗のビールで日本で一番有名なところと言うと宮崎のひでじビールさんというところだったので、そこにメンバーみんなで視察に行ったら、普通、ここの会社というのは研修なんかは一切受け入れていないんですけれども、そんな若いみんなが頑張っているのは僕は応援したいと永野社長におっしゃっていただけまして、奇跡的に僕らは研修できて、本当に全てのことを教えていただきました。
お金もあまりないですので、かなりの部分、自分たちで工事していきました。
でも、そう言っても、かなりの人が応援してくれて、もう何か見ていても一生かかるぞ、おまえって仲間内の方とかが言ってくれて、いろんなこう足場を貸してくれたり、女性でもできることがあれば言ってねと言ってくれた方が壁紙、剥がしてくれたりとかというみんなの力をお借りして、もともとこういった銀行の建物をどんどん、カウンターは自分たちで使ったり、奥にある金庫室なんかはそのまま生かして使おうとか、見ていただいたとおり、天井なんかももともとこうやって張り巡らされていたんですけれども、それも自分たちで全部解体して、そうしたら昔の風情あるはりとかが出てきたので、こっちのほうが銀行らしいよねというので、では、銀行らしさをもっとブランドとしようということで、僕はクラフトビールを作る銀行、それをCraftBankというふうな名前でやっております。
設備なんかも海外メーカーと直接やることでコストを抑えております。これは中国のメーカーと契約する時の画像なんですけれども、左のようにオンラインでつないでいただいて、これがどうなっているかとか、この仕様はもっとこうしてくれというのをオンラインで説明しながら、右側の右の人がお店の方だったんですけれども、左の方は僕らの間に入っていただいて、商社としてやっていられる方で、本当にちょっとした費用だけお支払いして、僕らの代わりに中国の現地で、コロナ禍だったので現地に行けなかったので、中国人で信用できる方を日本の大学の友人たちを通じて紹介してもらって、代理で行ってもらって通訳してもらいました。
面白いなと思うのは、初めは自分1人でやろうかなと思っていたんですけども、同じようなことをやろうと思っている若いやつがいて、最終的には彼と一緒に会社を組んで、本当に同じ条件で、僕よりも8歳も年下なんですけれども、全部やっていると。この子は地元のUターンの子ですね。もともと若い、僕よりも年下の1世代下くらいの子と一緒に事業したいなというのは前々から思っていて、それこそが福知山の新陳代謝だし、よくしていくことなのかなと思ったので、ちょうどよかったなと思っています。
ビール自体はこういう感じで、地元の素材なんかを使って、黒豆とか小豆とか栗とかそういったものを使うことによって、地元の経済をちょっとでもよくしたいなという思いでやっていたり、一方でこのLAZY IPAというんですけれども、そういったものやサワーエールというようなものは、アメリカのトレンドなんか取り入れて作っております。
資金調達も本当に北都信金さんに応援していただいておりまして、僕は前々から補助金を使ってお店を誘致するという活動、お仕事をさせてもらっていたんですけれども、補助金が入ると金融機関さんは補助金が入ることによって事業のリスクがなくなっていくので、補助金が入るか入らないかだけの議論に終始することが本当に多くて、そうじゃなくて事業の中身を一緒にジャッジすることが金融機関さんに必要なんじゃないですかというのを結構議論したことがあって、それは補助金じゃなくてファンドで出資して、その事業をずっとモニタリングしていくということがいいんじゃないですかというのをお伝えしていたことがあったんですけれども、まさにそれを今回の事業では一緒にやってもらえることになりまして、福知山には5つの商店街があるんですけれども、その商店街のエリアをぐるっと丸めて、この中で事業するという案件に対しては、北都信金さんと国交省系の民都機構さんがつくっていただいたファンドから募集していただけるという中身になっております。
本当に今、物すごく事業のことを見ていただいておりまして、こんなに金融機関さんとがっつり売上げの話とか、これからどうやっていくのかというのを話すとは思わなかったので、非常にサポートをしていただいております。
あとは、クラウドファンディングを実施しまして、かなりの方に応援していただいたなと。それはやっぱり僕も相棒の羽星君という男性なんですけれども、もう捨て身で今までの仕事も全部捨てて今実際やっていますので、その辺を共感いただいた方が多いのかなというふうに思います。本当にいろんな方に支えられているなという感じです。
福知山という地域のよさ、ローカルのよさというのがもう1つありまして、ちょっと長くなって、もうそろそろ終わります。地元に料理人の方がいらっしゃるんですけれども、僕らはレストランもしているので料理を全部教えてもらっているんですけれども、結構、料理のレシピを全て教えるって普通なかなか難しいし、料理人って結構こだわりが強い人も多いので、なかなかそういう手の内を明かせないと思うんですけれども、ずっとイベントとか一緒にやって出店してくれたりとかという関係性の中で、もう全部教えたるといって教えてくれる。この方なんかは、もともとスイスでフレンチされていたので本当にレパートリーが豊富で、そういう方って福知山で何人かいらっしゃって、多分福知山だけじゃなくていろんなまちにいらっしゃると思うんですけれども、そういった方はやっぱり実力があるので、何かチャレンジするという人に対して教えてくれる、それは普通、大阪とか京都とか多分神戸とか都会やったら競合にもなっちゃうし、普通しないと思うんですけれども、田舎だったらやっぱりチャレンジする人ってそんな多くないですし、そういう人たちと一緒に街を盛り上げようという機運があるので、そういったところが本当によさかなと思います。僕も今、料理していますし、日常的にはこんな感じで、ビールの作業をしているチームと料理するチームで分かれている感じです。
左の子なんかは福知山公立大学にいた子で、僕はイベントを通じてこの子のことはずっと知っていたんですけれども、卒業して東京で働いているのも知っていて、でも、正社員を1人欲しかったので、福知山にルーツにある子だったら、何か来たことあるとか、むしろ料理人をしたいとかいう方を、何かどうやって正社員、いい子を探そうかなと思った時に、その子にずっと東京にいたんですけれども毎月電話して、どうなん?というのを言いながら、ちょっと来てよというのをずっと口説いていたら、Uターンというか、Jターンですかね、戻ってきてくれて、長野出身なんですけれども公立大に入って、東京に行ったけれども、また福知山に戻ってきてくれて社員になっているんです。この子も移住者です。
だから、何か面白い職場環境みたいなのをローカルでもつくっていけば、どこからでも就職してくれるのかなというのは今実感しております。日常的にはこんな感じになっていますね。
2階はコワーキングスペースで、地元の公立大学の学生起業した子とか、そのほか、Uターンで帰ってきてくれているネット系の企業の子とかも含めて、今、10人ぐらいに使ってもらっています。その子らと何か事業を一緒に組んでつくっていくというのも僕らのやりたい最終形なので、ビール屋さんの2階にコワーキングスペースがあるというのは、僕らの特徴としてこれから育てていきたいなと思っています。
今は外国人の方とかもちょこちょこ見に来てくれたりして、一緒に勉強したりとか料理を教えてもらったりするという状況も生まれていますので、本当に少しずつ世界ともつながるような環境になっていっているんじゃないかなというふうに思っています。
ということで、僕らのキャッチフレーズ、「とにかく、ビール片手になんかやろう」というのを今は次のステージとして取り組んでおります。何か参考になることがあるかちょっと分からないですけれども、以上です。ありがとうございました。
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◯光永委員 庄田参考人、ありがとうございました。私、福知山の隣の町に実家がありまして、妻の実家が福知山市内にあるんです。それで、知り合いも多いんですけれども、小さい時から福知山に、私は隣町でしたからよく遊びに行ったりしていましたけれども、その間で中心市街地活性化ということで、今、福知山駅やその駅前商店街というんですかね、昔、里があったところとかは、本当にいわゆるリニューアルされてしまって、駅前の道も非常に広くなって、反対側がメインになるような、そこでイベントされたりもしているようですけれども、そういう街づくりと、一方では、庄田参考人がずっとこの間、取り組んでおられた旧商店街ですね。そこは今から考えると、単純に言えないかもしれないけれども、取り残されてきたからこそ今できることがあるというか、そういう部分も残っているのかなというふうに思っておりまして、そう考えると、今回資料でお示しいただいたところの対象を3つの商店街で円が描いてある。駅前の正面のところと広小路と新町と。そこに福知山駅の辺りは入っていないんですよね。たまたま円が入っていないのかもしれませんが。もともと中心市街地活性化法の第2期の時は、福知山駅中心に、厚生会館なども含めた、あれは111haぐらいの広い範囲を計画していたと思うんですけれども、その一番中心ともともと出発にしてきた福知山駅辺りは、もう大体再開発はされてしまって、人がたくさん住めるような地域ではなかなかなりにくい状況になっていて、そこの差がやっぱりちょっと私は街づくりといった場合に、この今取り組んでおられる広小路とかが一番古くて、なかなかシャッターがひどいところやと思うんですけれども、しかし、その界隈は結構住家がまだあって、人も住んでおられて、寂れてはいるけれども働いておられる方もおられるということで、そこの差と言うんでしょうか、当初取り組んだ福知山駅前の再開発の話と、今、若い人やUターンとか外から来られたIターンとかの方が、そこで面白い街づくりしようやないかということの差は結構あるのかなと思っていまして、その辺りをどう考えておられるかというか、今後の街づくり考える上で、庄田参考人としてはどんなふうにお考えなのかというね。
これは、もともと大学に行かれてから今の職業選択される過程の中でも大規模なリニューアルではなくてということ言われていたんで、大きい開発、私も少し違和感が、大規模開発というか、駅前開発がどんどん広い道路ができて、なかなか人が住めなくて、これで活性化されるんかなという気持ちはずっとずっとあって、そうじゃないところにやっぱり手がついていっているということを考えた時に、ちょっとそこの関係をどう考えるかというのが1つです。教えていただけたらと。
もう1点は、結構コンパクトシティという国の流れの中で、いろんな補助金とか規制緩和されている部分があるかと思うんですけれども、私の妻の実家は、もっと山のほうなんですね。山というか、谷というか。私の妻の同級生の人らは家があそこにありつつ、福知山の真ん中、旧市街地に働きに来ている、あるいはそこにもう移住してきて、実家は親がいるけれども、そこで店をやったり仕事をやったりしている子もいると。そう考えると、やっぱり農山村をたくさん抱える地域なので、その町なかのそういう努力が波及していくというか、そういうことも非常に大事かなと思っていて、レストランをやられて幾つか黒豆とかという話も先ほどありましたけれども、その周辺部の方の例えば農産物、農林水産物とかそういうものがどう使われたり生かされたりみたいなことも、これは行政が考えることが大きいのかもしれませんけれども、そういうこともセットで考えていくことが今後の長い年月考えた時に必要かなというふうに思っていて、その辺りについて何か努力とか、あるいは課題とかあったらちょっと教えていただけたらなと思いまして。
以上、2点なんです。
◯庄田参考人 1つ目の御質問、まさに駅前再開発の仕方とそうじゃない、たまたまかもしれないですけれども取り残されたエリアの活性化の取組という面での僕の中での考え方は、3つの商店街がこの今の北都信金さんがつくっていただいたファンドの投資対象になっているのは、深い意味というか、別に駅前の商店街、駅前のエリアで何かされてもある程度円の中に入っていたら投資はしていただけるので、必ずしも区画整理したところを対象外ということではないんですが、手法としてやっぱりどうしても当時、僕がパワーポイントで御説明したどこにでもある景色、要するに団地ですとか郊外型団地ですとか、残されたものも含めてなんですけれども、どちらかというと、パッケージ化された政策の中で、それを各行政の方がこのメニューがあるから実行するという形でつくられてきたというのが経過としてあると思うんです。特に区画整理事業なんかはそうですし、昔で言う高度化事業とかいろいろとあると思うんですけれども、そういったものを実行するという時って、割とお金が先に動いたり、すごいみんなが汗をかいて何か自分として取り組むというよりも、ある種、そのシステムにどうはめ込んでいくかみたいな議論が多分大きいと思いますし、それでその予算をどうとってくるかとかといった議論に執着すると思いますので、なかなかそのできた後、その土地建物を熱量を持って大事に何とかしようという方に、しかもそれを新しい、地元の方はそうかもしれないけれども、新しい方に入っていただいて、それもどんどん新陳代謝していかないといけないとなった時に、なかなか愛着が湧きにくいんじゃないかというのを個人的には思いました。
もっと経済的な話をすると、もう地方でどんどん人口が減っていく中で、そこまで区画整理とか大きなマンション型の建物を造っていっても産まないので、保留床が残ったりとか、そういったものがあり得るので、単純に何か寂しい場所に最終的になっちゃう、スカスカになっちゃうみたいなこともあるのかなと思うので、何か地方の今の時代にはなかなかそぐわないないんじゃないかなというふうには思っていて、僕の場合は、たまたま残っていた商店街のほうがある種、細切れで、権利も分散されていて、面倒くさいんですけれども、でも、1人1人の思いが、いろんな方がいらっしゃって、そういうのが集まりみたいになっていますので、そういったところにこそ、本当に人が集まった時の熱量みたいなのが生まれるんじゃないかなというふうには思っていて、やはり自分ごととして捉えていかれると思うので。
プラス建物が小さいですし、そういったところに若い事業者の方も比較的大きな土地をドーンと取得しないといけないということもないですので、若い方が入りやすくて、入った時にその方々がどんどんどんどんその組織の上のほうに行っていただけるという環境になれば、新陳代謝が起きて新しい物事がどんどんいろんな人に関係して巻き込んでいって生まれると思うので、実際、福知山の場合は、商店街に全部新しい人が入ってきて、その方々が今は理事になって、理事長になって、どんどんまた商店街じゃない外部の方も含めて同世代の人を巻き込んでいってイベントしたりとかというのが行われているので、そういった意味で経済的にも今からスタートする若い人たちが入りやすい環境にたまたまあるというのも大きいのかなというふうに思います。
2つ目のコンパクトシティ化の中で、郊外と中心市街地との連携という意味では、まさに委員がおっしゃっていたとおりで、地方のよさというのは、福知山もそうですけれども、ちょっと30分ぐらい車を飛ばしたら本当に農村地帯があって、そういったところで都会ではできないようなアクティビティーだったり、普通つくれない、その大きく面積を拡充できない農産物の生産とか、実際生産されている方もいらっしゃって。中心市街地というのは、ある種、そういったところのものを消費する場所としての役目を担うべきなのかなというふうに思いますし。
一方で思うことは、中心市街地以上に今やっぱり郊外のほうが魅力的になって、コロナを経て、コロナ禍の今の状況になったことで、より注目されているんじゃないかなというふうに個人的には思っていまして、中心市街地を飛ばして郊外のほうが生産したものをどんどん全国に売っていける世の中になっていますし、逆に直接都会から魅力的なものがあれば足を運んでくれるというものになっていると思いますので、何かより両立するとすれば、郊外の農産物を中心市街地で消費していくという形かなと思いますけれども、どっちかというと、郊外のところが直接都会とつながるほうが話が早いのかなと思いますので、中心市街地は中心市街地でそこにしかないよさみたいなものをどんどんつくり続けるしかないのかなというふうに思います。
例えば、人が集まることによる何か関係性の中で起こる人間的な楽しみですとか、何件か店があって、そこを介してできる楽しみですとか、何かもうちょっとそういったある種、都会的でもあるんですけれども、そういうのでもより都会では味わえないようなものをどんどんつくっていくみたいなことが、ハードルは高いかもしれないけれども、必要かなというふうに個人的には思っています。
すみません。かなり難しい質問だったので、そういう感じです。
◯光永委員 ありがとうございます。
1点目のことは本当にそのとおりだろうなというふうに思いまして、やっぱりその長いスパンで見た時のまちづくりの在り方を、その中心市街地活性化法の後半のほうは改正されたりして、少しにぎわいという考え方を変えてきたりとかしてきたと思うんですけれども、やっぱり最初はそうではなかった傾向が強かったので、そこに飛びついて早くやっちゃったところは結構悲劇が起こっているというのもあると思うので、福知山駅前がどうかというのは別にしても、残った商店のところで相当厳しい商店街やったと思いますし、今もまだそういう面はあると思うんですけれども、そういう動きが始まったというのは本当に励まされるので、そういう意味では京都府内でもそういう努力をしていこうとした時に、これまでの取組がどうやったんかということは行政としては一定、総括、反省をしてやっぱり教訓化する必要があるんじゃないかなというようなことを改めて感じました。
それともう1点、後段のほうは、やっぱり田舎で家を構えて町なかに働いておられる方はまだ、例えば田舎の親と一緒に大きくない田んぼを耕したりとか、そういう方も若干おられると思うんですけれども、なかなかそれ自身が大変なので、もう福知山の真ん中に住んで仕事しているとか、そこから大阪に通っているとかそういう方も結構おられるかと思うんですね。そうすると、外から入ってきた人とかUターン、Iターンとかで山間部、中山間地に住んでというふうになると、それはなかなか腹を据えてやらないとできにくい部分があって、そういう意味では、制度の話もあるんですけれども、今ある田んぼとか今頑張っている高齢者の方とかが、やっぱり将来が見えていくということ、辞めないで見えていくということがすごい大事かなというふうに思うので、そういう意味では一定活性化の方向で努力されている、今、町なかに集まっている人とその周辺部の人との交流とか、あるいは周辺部のおじいちゃん、おばあちゃんをちょっとここに招いて、こういう街づくりしていますよとか、逆に入ってきた人に山間部を回ってもらって、こういうポテンシャルあるんですよとかいう、やっぱり知っているようで知らないと。福知山って本当に広いので、その自分の谷筋のことは知っているけれども、街のことを知らんとかすごいあって、それはこの10年とかで物すごい変貌していっている姿もあんまりよく分かっていない。病院に行く時しかうちの母とかも町なか行かへんので、本当に分からないということになっているかと思うんで。知っているのはロードサイドにいっぱい大きい店ができている。だけれども、車に乗れへんから行かへんということになっているかと思うんで、せっかく来られた方々との地元というか、周辺部の方とか、その方、一番苦労されているかと思うんで、そういう方と交流できたりとか、そういうことも本当はもっと行政が考えながらやっていく必要あると思うんですけれども、これも何か上からかぶせるというよりは、自発的な部分が非常に大事かなという気もするので、その辺りはぜひ期待したいなというふうに思っていますので、また御努力いただけたらなということを要望させていただけたらと思います。
本日はありがとうございました。
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◯島田委員 理事者からの報告でちょっと伺いたいんですけれども、これまでの取組の成果と見えてきた課題ということで、令和3年度に676人の移住者があったと。「農村への移住は一定成果、しかし・・・」とこの辺りをちょっと聞きたいんですけれども、京都府の人口移動状況を見ておりますと、移動者数では他府県への転出のほうが転入よりも3,900人も上回っている。
なので、言いたいことは、移住者は来られたけれども、逆に出ていってしまっている人たちが、若い人たちが多いと、これ差引きマイナスなんで、頑張り屋さんが来て地域活性化するのはいいのだけれども、もともと住んで欲しい子どもたち、孫たちが出ていってしまうといけないわけですね。
ということは、新しい移住者も含めてその地域がずっと住みやすいところでないと、これは成功しないというような思いもあります。その点では、やっぱり仕事の場所、収入、そしてやっぱり若い人たちが移住されてくるには教育とか医療とか、そこの環境を整えないといけないしということがあると思うんです。その辺りで、この「・・・」のところをもう少しお教えいただきたい。今、数字的にお聞きしたいのは、移住者数の横で転出している数というのをつかんではりますか。もし分かればお聞かせください。
◯北村地域政策室長 具体の数字が分かれば、また担当の企画参事から、お答えさせていただきますけれども、同時に移住を増やすというところプラス、北部の方々、当然大学なんかで市内なり他府県に行かれて、そういった方々にいかにふるさとに戻っていただくのかというところに関しては、今、委員がおっしゃった、当然仕事の部分でありますとか、実際のそういったふるさとに対する帰りたいなという魅力の心の部分も含めて、やはりしっかり取り組んでいかないといけないでしょうし、もう1つ、そこの部分と言いますのは、今言ったような大学で出ていった方、また層によっては実際に子育てが始まる世代になると、少し制度のいいところに出ていかれるというようなケースもあるというふうに思っておりますので、それぞれの層の中ごとの課題課題に応じた対応というのをしっかり今も取り組ませていただきますけれども、そこというのはニーズも常に変化しますので、その辺りのニーズというのをしっかり押さえながら、引き続き取り組んでまいりたいというふうに考えております。
◯島田委員 やっぱり現に住んでいる者がその地域で住み続けて頑張ろうかと、そういう地域にならなきゃいけないというように思うんです。いろいろ新しいことをしなくても、やっぱり1次産業も大事にしなきゃいけないし、この移住促進地域に指定されている美山の大野とか鶴ヶ岡が入っていますけれども、例えば美山までいきますと知井の保育園を休止するとか、あるいは府民環境・厚生常任委員会で議論しております病院の入院ベッドを減らすとか、逆に住みづらくなっていて、そもそも何もしなくてもそこの地域がとてもよくて移住されている方がたくさんいらっしゃるところに新幹線で山を壊すという逆行のことなんかもあるので、そんなことも含めまして、地域づくりというのは総合的なものでもあるし、そういう点で施策の推進方向も1つ1つ点検をしながらお進めをいただきたいなと思います。
以上、指摘しておきます。